読者と新聞記者との互恵的な未来像を目指したい

   

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本日の朝日新聞朝刊で気になるコラムを読んだ。実はかねてから気になっていたのだ。「何故最近新聞記者のプロフィール付きのTwitterアカウント(とりわけ朝日新聞)が多いのか」以下の下りを読んで納得出来た。

記者有論-経済部:下山裕治 朝日新聞2014年8月30日朝刊より引用:

朝日新聞はツイッターで情報を発信したり、収集したりして報道に活用する試みを2年半前から進めている。広く普及しているSNSで瞬時に飛び交う無数の情報を記事づくりにいかすのが狙いだ。

コラム冒頭にはその試みの結果として、取材時の質問の切り口を増やすことが出来た例、突発的な事故・現象での写真提供の例を挙げている。期待している効果はある程度得られているようだ。

確かにSNSで飛び交っている無数の情報は数とスピードだけは凄まじい。玉石混交で石の方が圧倒的に多いのだけれど、磨けば光る玉石や即座に使える宝石もある。拾い出し方を工夫すれば記者の知識や発想を超えるものも当然拾い出すことが出来るだろう。

ただ、このコラムの書き方からするとその価値あるものを拾い上げるだけが目的というように読み取れてしまう。しかし、個人的にはこれだけだとちょっとつまらないとも思った。

SNSの上澄みだけで有り物を拾うって焼畑農業というかその日暮らし的

これは下山氏の考え方や朝日新聞のTwitter戦略の目指すところとは違うかもしれない。しかし、短い文章の中からはそれ以外自分が文面からそう読み取ることしか出来なかった。

事件や事故、大きな世の中の変化、或いはその予兆となりうる事項が発生すると、テレビや新聞、ラジオ、インターネット、様々なルートでニュースが流れる。それを刺激を受けて多くのつぶやきが同時多発する。

その中にはその分野の専門家であったり、そうでなくとも造詣が深かったり、論理的構築力が高かったりして伝えられた内容に厚みや濃さを付加出来るつぶやきが含まれる。そこまでいかなくとも瞬時の閃きでそれまで存在しなかった断面が突然生まれ、刺激が伝播して別の発想を産むということもある。SNSの参加者母数の膨大さと紐づけの容易さが、かつて存在しなかったその環境を現実化している。

記者有論-経済部:下山裕治 朝日新聞2014年8月30日朝刊より引用:

しかし、価値観が多様化した現代社会では、時に記者の視点がそぐわない可能性だってある。今後もツイッターで新たな着眼点や発想を採り入れながら、ジャーナリズムの可能性を追求したい。

記者はその上澄みを掬うことを目下の目的としている。アカウントを持って自らつぶやくのはその呼び水を提供し、場合によっては汲み取る井戸としてだ。

でも、それって有り物を拾うって焼畑農業というかその日暮らし的という感じがしてならない。借りぐらしのアリエッティ的と言えば可愛いのかもしれないけれど…、その割にはあくまで一方的にTwitterの中から記者や新聞社の方針という視点で絞り込んで取捨選択するような姿勢に見える。それって、凄く不均等で刹那的なんじゃないかなあ。

自分が新聞記者のつぶやきを読むときの姿勢

こう自分の拙い読解力で勝手に新聞社や記者の思いを量るのも一方的なので、自分の姿勢も書いておこう。

自分もまた新聞記者のつぶやきをよく読んでいる。理由は簡単だ。面白いからだ。無作為にTwitter上でWeb有名人のつぶやきを追いかけることには飽きた。正直言って、どうでも良いことをどうでもいい偏った解釈や思い込みでろくな検証もせずにああでもないこうでもないとやっている。議論ではなく足の引き合いや感情の応酬に終始する。

記者のつぶやきは最低限記事をベースとしている。署名記事の場合、記事を書いた記者がその内容をつぶやく。そのままではなく、ポロポロと周辺事項や補足事項など行間から読み切れなかったことも出てくる。それは社の方針に必ずしも一致しなかったり、パッケージとしての紙面、記事の制約から省かざるを得なかったことが含まれている。

自分が新聞記事やその他報道から得られた情報から物事を考えたり、ひっかかりを感じた際、このちょっとした外出しの情報が凄く助かるのだ。例えば、ある事件に対して過去の事例や他国の事例と繋ぎ合わせてみたり、その分野の基本書を探したり出来る。ずばりそのものを教えてもらわなくてもキーワード一つが、次への繋がりを開く。

また、記者とは多くにおいて現場の人である。事件、事故、現象の当事者では無いが、それを正しく早く広く伝えるべく、現場、現物、現実に接する。自分はそういう人を無条件で尊敬するし、逆に言えばそのどれかを有しない人は信用に足らないと考えている。だから、新聞記者のつぶやきは個人としてであれ魅力的だし、有用で有難いものだと思っている。

読者と新聞記者との互恵的な未来像を目指したい

自分はこのように記者が個人名を挙げて前面に出てきたことを素晴らしいことだと考えている。そこには当然リスクもあったと思う。津田大介公式サイト | 記者による実名ツイッターの解禁で朝日新聞はどう変わる? (津田大介の「メディアの現場」Vol.20より)などで書かれているので詳細の説明はしないけれど、2012年の段階では英断だったと思う(海外に後れを取っていたとしてもよく踏み切った)。

しかし、不満はある。自分が期待するのは更にその先なのだ。それは一足飛び、いや五足飛びくらい先に飛んだ話だから、当然間にはステップを踏む必要はある。ただ、現状で良しという認識では目標値が低いと思うのだ。

記者有論-経済部:下山裕治 朝日新聞2014年8月30日朝刊より引用:

しかし、価値観が多様化した現代社会では、時に記者の視点がそぐわない可能性だってある。今後もツイッターで新たな着眼点や発想を採り入れながら、ジャーナリズムの可能性を追求したい。

この最後にあるジャーナリズムの可能性を追求するという点についてもっと現実的な目標に落とし込んで現実化する手段を講じねば現状のままであるだろう。

ここで表題である。読者と新聞記者との互恵的な未来像を目指したい。せっかくここまで環境や人の配置といったリソース面が整ってきたのだから、そろそろ次のフェーズを目指すべきと自分は考える。

記者はただでさえ日々の業務で一杯になっているだろうけれど、単に情報収集という視点ではなく、相互に対話することで視点を増やすことを考慮されたい。同様に読者は単に記者やメディアの情報を消費しその場限りの一言居士になって満足するレベルを脱し、情報を消化し自分なりの視点醸成、記事をとっかかりにストック情報にあたって記者と会話が出来るよう研鑽を積みたい。

相互に成長があるならば、ジャーナリズムなんてちんけな(行きがかり上すみません…)目標では無く、互恵的に情報を思想やアクションに変換し、自分たちの生き方に還元出来るところまで持っていける筈だと自分は信じる。これは誰が責任を持つとか誰が上で誰が下とかそういうせせこましい既存の観点を捨てて、人として面白いことを追いかければ最終的に行き着く結論であり未来だと思う。

蛇足

記者のつぶやきを暫く読んで気が付いたことの一つに、記者によっては年齢に関わらず恐ろしく頭が固い人もいるということがある。例えば、ある事件に対して記者個人として思うことは当然ある。だから、その観点に絞って記事を書こうとする。それは当然だ。ただ、そうやって捨象する中に本当に考えるに値しないことなのかを見切る前提があまりに浅く早いと感じられる場合がある。

残念ながら、それを直接指摘をしても大抵の場合反応が無いか、対話を途中で一方的に断ち切る姿勢が見えてしまう。勿体ない。なるほど記者は多くの現場、現物、現実に接し、大量の情報を扱い、一般から見れば優れた知力や体力を持っている。その面は認めているが、所詮は人である。人の目は二つであり、考える脳は一つしかない。だからこそ、異物を恐れてはならない。忌避してはならない。

自分が知る限り、先を見る余裕がある記者はその点において謙虚であり、貪欲であり、前向きである。まずもって受け取ってから判断するまでの時間は短いのだが、的確な捌きが出来ている。判断を超える場合や時間が目下足りない場合、切り捨てるのではなく、腹に溜めておいて判断が出来る材料と結びつかせるまで執念深く熟成させる。熟成し消化し切り、血肉に変える。

別にこれは報道の世界に限ったことではない。読み手にとっても同じことで消化して血肉にしない限り、上滑りする思い付きの世界で七転八倒するのが関の山だ。仕事をするにせよ生活をするにせよ、そうでなければ同じ場所でぐるぐる回ることになる。あまり人間の所業を軽く見ない方が身のためだし、目指すところから遠のく選択を自ら行うことはあまり頭のよい進め方では無いと思うけれどなあ…なんて思うことたびたび。

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