居住の権利と心の置き所とお金の話

   

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朝日新聞の特集記事「人口減にっぽん近未来からの警告」のうち、(人口減にっぽん・中)住民なき島、公費なお(人口減にっぽん・中)細る集落、維持難題を読んで暫く考え込んでしまった。

日本には10年以内に消滅の危れのある集落が454あるという(2010年総務省国交省調査)。この記事で挙げられた島や集落は事実上無人となっているが、利用可能性を考慮して行政が維持コストを少なからず費やしている。ドライに考えれば、それは無駄なコストだろう。ただでさえ地域行政の使える予算に余裕は無い。

しかし、そこを本当に切っていいのか?心の置き所はどうする

一旦人が住んだ場所というのは思いを残すものだ。これはお金とはきっと次元が違って価値がつけられないものの筈だ。正直に言って自分にとって、この454の集落に対しての縁故も思い入れも無い。

だけど、想像は出来る。自分の生まれ育った場所、実家、祖父母の家、周辺の風景はどんどん変わっていく。隣近所の知人、見知った人はいつのまにか、そして確実にいなくなる。

自分にも可愛がってくれた祖父母がいた。でも、それに報いることなど出来ないまま亡くなった。彼らの住んでいた家は売却となり、潰され、今は既に築12年の見知らぬ家が建っている。そこに誰が住んでいて、どう中身が変わっていたかは知るよしもないけれど、自分がその土地の近くを通るときに思い浮かべるのは今は無い彼らの家であり、そこにいた自分であり、家族であり、周辺の人たちだった。

時間が経つということはそういうことだと頭で分かってはいるものの、現実として目の前にある状況は残酷に映るものだ。感傷的に過ぎるとは思わない。今の自分はそういう幾多のプロセスを経たからあるのだし、それらはやはり自分にとってかけがえのないものだからだ。まして、その場所自体が人のいない場所となり、行く手段も無くなるというなら猶更切ないというのは共感は出来ないまでも想像は出来る。

維持コストを放棄できないセキュリティリスク

仮に維持コストを切るとしても、そこにある集落や周辺の環境は荒れ廃れるままにして良いのか?大都市圏でも空き家には放火や犯罪行為の温床化(例えば、危険ドラッグや大麻栽培に使われたり)が指摘されている。そこをただ放置するというわけにもいかない。

(人口減にっぽん・中)住民なき島、公費なお:朝日新聞デジタルより引用:

なぜ、無人島にこうしたコストがかかるのか。鹿児島市桜島支所の宮脇卓支所長は「今後、島にだれも住まないと言い切れない以上、住民がいなくても行政が関わっていくことになる」と話す。無人になったとはいえ墓参りに訪れる元島民がいるほか、廃棄物不法投棄や不審者、反社会的勢力が住み着かないか、監視も必要という。

綺麗に土地を慣らして手仕舞いをするには、一時的にまとまったお金が必要となるけれど、それを惜しんで行政がリスクを知らぬ存ぜぬでは済まされない。

一旦出来てしまった集落は発展させていい面があるだけではなく、一定のコストやリスクを背負う負債的側面は常に持っている。消滅するとなると勘定から漏れやすいそういった負債がおもむろに顔を出す。過去にも消滅集落はあったけれど、恐らくはそこそこ誤魔化せる範囲であったのだろう。(放置することが許されるくらいには…)

コンパクトシティ化もなかなか難しい

記事中、人口減少、高齢化が進む夕張市で市内に散らばる住民に、一定の場所に集まって住んでもらう計画を進めている話も取り上げられている。行政にある予算が限られる以上、行政サービスを可能な限り充実させるのは住民の居住地域を集約して、そこに投下するという手法だ。住民が生きやすい場所を作り且つ予算を効率的に使う苦肉の策だ。

しかし、それも簡単には受け入れられない。

(人口減にっぽん・中)細る集落、維持難題:朝日新聞デジタルより引用:

再編計画は始まったばかりだが、実現までのハードルは高かった。移転の説明会では、地域に愛着を持つ住民が「私たちの集落をどうする気だ」と猛反発。移住を拒む住民を説得するため、職員が毎週、各家を訪問した。

先にも書いたように人には土地に結び付いた思いがある。簡単に「はい、そうですか」とはならない。他人事である間は「なら、不便なままそこに住むのか?それとも移住するのか?二者択一であっていいとこ取り出来る訳ないだろ」と通り一遍の薄っぺらい批評のつぶやきでも吐き捨てて終わりだろう。

でも、ちゃんと他のものをあげるから、今あなたの持っている大事なものを全て今すぐ捨てましょうと言われて、即座に乗れる人がどれだけいるのか?これはたかだかネットの上での承認欲求や目の前の仕事のことや生活のことで心の軸が簡単に揺らぐような人達が気安く判断して良い話では無い。

でも、結局のところ、オチはつけないといけない

そう。心の問題は簡単な話では無い。だけど、結論を先延ばしにしていてもお金も時間も無限ではない。勿論、当事者である住民の命も生活も有限なものだ。だから、この話にはオチをつけなければいけない。

そして、この記事で一番気になったのは、本当の当事者である住民の意思が問われていないところだ。この問題のオチをつけられるのは行政でもなく、物見高い赤の他人でもマスコミでもない。そこに住んでいた、或いは住んでいる住人が意思を示さなければならない。

なるほど日本には居住権がある。日本国内であれば制限のある場所を除けば意のままに自由にどこでも住む権利を誰もが持っている。居住移転の自由は、基本的人権の一種であり、日本国憲法第22条第1項で定められた自由権の一つであり、侵害されてはならない。

しかし、それでもリソースが有限であるならば、それを無理に出そうとしても仕方がない税金で賄われる以上その人たちに振ることが出来るお金は必然的に限られる。。無い袖は振れない。単に権利を主張するだけではなく、彼ら住人は選択する義務がある。選択できる範囲を無理に狭めたりしてはならないが、出来る範囲でのベストかセカンドベストを自ら選択し、彼らなりの幸福が追求出来るようにならないとこの話は進まない。

都市圏にいたとしてもこの話は他人事ではない。消滅可能性都市に豊島区が選ばれニュースになったが、今存在する高層高級マンションだって先は分からない。孤独死問題でよく取り上げられる常盤平団地や高島平団地だって50年ほど前は異常な活況だったし、家族構成も同じようなものだ。遠からず誰にでも直面する話と心得た場合、当事者としての選択をする心構えは今から持っておくに越したことは無い。

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