本当に絶望はあるのか?絶望したのは一体誰か?絶望したのは何故か? - 適宜覚書-Fragments

本当に絶望はあるのか?絶望したのは一体誰か?絶望したのは何故か?

      2017/03/02

や、他の誰かじゃなく俺のことよ、これ

いやいやいや。我ながらクドいね。ルー語並にクドいね。まあ、それはそれとしてね。404 Blog Not Found:書評 - 若者を食い物にし続ける社会を受けてessaさんが、こう書いている。

「今の若い人の気持ちを自分たちが若い頃の経験で推し量ってはいけない」

とマジで怒りました。

お肌の問題に悩んでいる女性にこんなことを言うのは明らかにコンテキストがずれている応答なので、その時は無茶苦茶な夫婦喧嘩になりましたが、折に触れ、そういうことを一年くらい言い続けていたら、ある時突然、これと言ったきっかけもなく「今の若者には『未来』が無いんだ」ということをストンと理解しました。

アンカテ(Uncategorizable Blog) - 再提言:世代別二院制

ふんふん。なるほどねえ。これは「よくぞ自分たちの気持ちを代弁してくれている!」と絶大な若者支持を集めるだろうなあ…と思った。実際ブックマークコメント群の大概は好意的な評となっている

しかし、記事のTrackbackを辿ると案外そう一束ねにはならない意見が幾つか見られた。例えば、こういう意見。

  • 「未来」は「金」とイコールではない(イコールとなる人もいるけど、僕から見るとその人の価値観は貧しすぎる)
  • 殆どの若者は「未来」を失ってなんかいない
    • ただ、狭量な世界観の人だけが「未来」を狭く考え、結果若者は「未来」を失ったと勘違いする
  • 「理解ある大人たち」に注意せよ!彼らの論に乗れば、結局自分達の「未来」を奪われることになる。
  • 本流若者論は、俗流若者論を、「善/悪」で判断してみろ。

NWatch ver.X

前提としていた絶望そのものが無いとした上で、理解ある大人を危険視している。存在するかどうかもわからぬ明日のために今を犠牲にする希望の持ち方などマゾヒズムである。そんなマゾヒズムは「正しくない」。だから今を楽しく生きる「絶望社会」を推奨する。…という論立て

或いは、絶望は乗り越えてこそ若者という意見。

つまり、過去から継承されてきたこれまでの仕組みにおいては未来は無いかもしれませんが、そんなものは大した意味がない。ある時代が末期にきているという証だと思います。次の時代を自分達で作れる可能性が大きいというのは、希望にあふれる未来像なんじゃないでしょうか。まぁその発想の転換ができない連中は、屍と化すかも知れませんが、それは時代の要求に応じられなかった訳で、仕方ないでしょう。どんな世代でもそういう人間は居るものです。

Kazu'Sの戯言Blog(新館) 絶望は悪か

弾さんやessaさんは絶望を既知のものとし、その理解が高齢者に無いことを憂えている。この論は表裏で成り立っていて高齢者だからこそ若者の絶望を受け入れられないし、若者の絶望を受け入れられない者が年寄りであるとしているように見受けられる*1。その一方で、絶望そのものを認めない不確かな希望の未来より今を生きたい若者や絶望を糧にするという若者もいる。物わかりのよい大人のサンプルも若者のサンプルも一般化するには全然足りないが、このズレは議論を根底から違えさせるに十分のものがある。

表題の通り、問いたい。本当に絶望はあるのか?絶望したのは一体誰か?絶望したのは何故か?前提を整理してある程度枠作らないと発散して終わるだけだよ*2

え?人の尻馬乗っかっているんじゃなくて自分の意見出せ?

んー。世代的に自分は明らかに弾さんやessaさん側なんだよね。で、まあ弾さんやessaさんの挙げた若者の絶望っていうのはそれなりによくWEB世論的に見掛けるような気がする。だから、「ああ、空気読んで上手く楔打ち込んだなあ」と思っていた。でも、違うという話があって「あれれ?」と困惑するばかりでよう整理出来ません。もうちょっと様子見します。

8/1追記:尺度の違い(ochame-coolさん多謝)

ブックマークコメントで以下のご意見があった。

絶望なんて数値比較できない。経済という面から「絶望的」といっている人と、気分的に「絶望って何ですかw」といっている人を同じパースペクティブで語る意味はほとんどないのでは?どちらも正しいわけだし。

なるほど。そうかもしれない。

パースペクティブという単語を普段自分は見聞きしないのではてなキーワードを見たら、「遠近法」とか書いてあった。そのままだと意味が分からないから「尺度、距離感」と言い換えて解釈した。もし違っていたらご指摘下さい。

つまり、essaさんの話は主に経済を中心に絶望を語っていて、尺度ではマクロ的、個人からの距離感としては遠い。一方、引用した若者達のひっかけどころは個人の生活や生き方に根差すもので尺度で言えばミクロ的、個人からの距離感で言えば至近だ。だから、同じ尺度では語れないし、お互いの関係で矛盾するのは別におかしくはない。

そうすると当の若者の一部は近視眼的でマクロ的な絶望など関知しないか軽視している。その一方でマクロ的な絶望に浸りこまされた若者達が沢山いて、essaさんはその絶望感を代弁している。

8/1追記:保障の無い未来の希望よりもかけがえのない今を楽しく

  • NWatch ver.X - 「希望」を持たないというのは、むしろ豊かである証拠なのでは

Trackbackでのご指摘多謝です。どうも自分は勘違いしていたみたい。これに基づき上記を一部手直し。希望、絶望の定義、尺度がessaさんの話とはそもそも異なるということで、ochame-coolさんのご指摘の裏付けににもなっているように思われる。

*1:もしかするとこれは自分の穿ち過ぎかもしれないが…

*2:前提の不一致でまともに終結する議論なんて自分は見たことが無い。無理矢理各々の異論を明後日方向に投げて満足する時間潰しはよく見かけるけど…

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