テメエたちの場をテメエたちで守るとはこういうことだろうか? - 適宜覚書-Fragments

テメエたちの場をテメエたちで守るとはこういうことだろうか?

      2017/03/02

404 Blog Not Found:幸福を痛感するを読んでみて、理解出来なかった部分がある。

NC-15 - 「本物」は表現する時点で「多少のコストを覚悟」してると思うが

自分で何かを公の場でやろうとするんだったら、批判や電波に対するリスクは常に付きまとうわけで、これはリアルだろうがブログだろうが一緒だ。結局、テメエの場所はテメエしか守れねえわけで。

最後の部分だけこう直させていただきたい。

テメエたちの場所は、テメエたちしか守れねえわけで。

「たち」の有無の違いこそ、梅田発言の最も重要な指摘なのだ。

そして痛みの原因は「テメエたちの場所をテメエたちで守る」ことにある。テメエたちの場所を守るというのは、テメエたち同士で慰め合うことばかりではないのだ。その中には、テメエたちどおしでどつきあうことがどうしても必要なのだ。

404 Blog Not Found:幸福を痛感する

なんで、テメエ、即ち個人ではいけないのか暫く考えてみた。多分こういうことではないか?

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個人という枠で場所を形成するか、他者の意見(という存在)を認め論を戦わせる場所を形成するかの違いではないか?上図では後者は互いに合意形成がなされる奇麗なやりとりにしてあるが、実際はそこまで担保しない。意見の正統性が認められなければ、意見の致命的な部位を食いちぎられるかもしれない。バトルロイヤルだ。しかし、少なくとも相手の存在は否定せず、頭ごなしに反論を封殺はしないという最低限のルールはある。多分そういう違いを言いたいのだろう。言い換えるなら議論をするだけの最低限の信頼関係を担保することが、テメエたちの場を守るということだろう。

これが成り立つにはもう少し細かく前提条件がありそうな気がするんだけど、パッとは思いつかない。別にこの後者の信頼関係というのはWeb独特のものではないが、Webが関係を見えやすくしたということは言えるだろう。その意味で今この時代に生きる幸せは自分にも噛み締めることが出来る。

自分の解釈通りなら、NC-15 - 「本物」は表現する時点で「多少のコストを覚悟」してると思うがの文脈であれば、「テメエの場所」で成り立っているように思う。あえて、異質なテメエたちの場所概念をはめ込むのは飛躍が大きすぎるんじゃないか?行数は増えるが前段として

 えーと、閲覧者はこんなにアホじゃないんで、正当な批判と、無意味誹謗中傷の切り分けができてる奴が多いっすよ。粘着的な批判については、きちんと相手の話を反芻した上で論理的にアンサー返せば、粘着的な奴でも旗色悪くなりますし。どう見てもネットイナゴみたいな連中に対しては、削除したところで責める奴はいないだろうしね。

NC-15 - 「本物」は表現する時点で「多少のコストを覚悟」してると思うが

あたりにかけてから「テメエたち」という話に持っていくなら繋ぎが良さそうだ。

仮説なので違うなら違うで補足訂正があると嬉しい。

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